カンパリオレンジを飲み干せ

めざせ1日1エントリ

学びを得る機会

今日の挨拶

こんにちは、べにぃです。
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ところで、みなさんは勉強はお好きですか。
得意だという人もいれば、苦痛だという人もおられると思います。
自分に合った勉強法などはお持ちでしょうか。
そうでない方は何か夢中になれるものに没頭する時の自分はいったいどうしているでしょうか。

今日は自分が何かを学ぶ時のことについて考えます。


学びを得る機会


私は勉強が嫌いだが、何かを学ぶことは好きだ。
自分の知りたいことがわかるようになるのはとても好きだが、誰かにやりなさいと押し付けられるのは本当にダメだった。
小学生の頃、B4の紙に足し算や引き算の練習問題が60問ぐらい載っていた宿題のプリントをやりたくなさすぎて、親の目に触れる前に家の横にある空き地の側溝にちぎって捨てたことがあるくらいだ。

一方で知らない漢字や言葉があるということがとても嫌で、テレビや漫画の中で見たことのないそれらが出てくるとすぐに読み方や意味を知ろうとした。
漢字が読めないと大人の話についていけないので、コミュニケーションが取れないのである。
彼らが私の全く理解できないところで何かを面白がり楽しそうにしているのがうらやましかった。
同じ理由で昭和のアニメや懐メロのようなものにも一時期少しだけ詳しくなった。

知らない言葉を覚えて、使えるようになる。
そのおかげで誰かとのコミュニケーションの手段が増える。
それが私の子供時代の楽しみの1つであった。(自称コミュ障の矛盾でもある)
漢字ドリルに出てくる新作漢字(?)を見て、「進研ゼミで見た!」ならぬ「あのときのニュースに出てた!」とか「いろんなところでよく使われてるあのスター漢字がついに漢字ドリルに進出!」とかわけのわからない喜び方をしていたものだ。

そんなわけで私はメディアに出てくる漢字に少しうるさい。
今でも知らないものがあれば知りたいハンターの血が騒いでしまうからである。

だが、世間は私をあざ笑うかのようにメディアから漢字を消し去っていく。
一番初めに気がついたのは中学生の時だったろうか。
NHKのニュースだったと思う。
医療関係のニュースだったのだが、「腫瘍」を「しゅよう」とひらがなで表記していた。
一瞬なんのことを言っているのかわからなかった。
ああ、あの体にできる肉の塊のことかとわかるのにワンクッション必要だった。
その少し後、たしかめざましテレビの7時になる少し前にやるエンタメニュースで取り上げられていた倖田來未さんの新曲のニュースでも似たようなことがあった。
なんで「艶姿」のこと、「つや姿」って書くんだよ。
この字面だとさながらお米の新品種で色気半減である。エロかっこよさが伝わらん。


私は憤った。
家族にその不満をぶつけたところ
「漢字が難しくて読めないってクレームがきたんじゃないの」
とのこと。
当時はサービスの提供者に身勝手な要求を押し付けるモンスターペアレントとかの話が盛り上がり始めていた頃で、理不尽なクレーマーの厄介さを面白おかしく取り上げるのが流行っていたからだ。
もしそれが本当だとしたら我々はどこで言葉を学ぶのだろうか。
いくらグローバルだ英語を共通語にだと言ったとて言葉を覚えるベースは日本語だ。
日本語はひらがなだけで言葉の使い分けをしてコミュニケーションを取るのが困難な言語だ。
我々はいつ自分の国の言葉を知るのだろうか。
学校で勉強で学んだことを、使う機会がなければ、なんのために学びを得るのか。

確か当時はパソコンの変換が普及すると漢字を覚えられなくなる子供が増えるだのなんだのという論が盛んだった。
私はこれには反対だった、同じ読み方でも違う書き方をする漢字などは知っていないと使い分けられないので漢字の勉強は積極的にやっていかないといけない。(個人の意見です)
というのは建前で、この論を信じた大人に大好きなパソコンをいじる機会を奪われるのがめちゃくちゃ嫌だった。

私が青臭い義憤に駆られているのをあざ笑うかのごとく、気がついたら世間はひらがなの丸みを帯びた優しさに溢れた世の中になっていた。
難しいらしい漢字は少しずつ社会から抹殺されていく。
教科書で見たあの言葉、漢字ドリルにもいたあの漢字がふとした時にいなくなっているのに気がついた時のさびしさよ。

一方で普段使いされないような書くのも読むのも大変な高難易度の漢字たちはクイズ番組にひっぱりだこで、さながら戦闘力を示すためのアイテムみたいになっていた。
これはこれで悪くないけど、使い方が二極化していくとその差についていくのが大変でいささか疲れてしまう。

人は何のために学ぶのだろうか。いつ学びを得るのだろうか。
私は暮らしを豊かにし、楽しいと感じることを増やすためだと考えている。
暮らしに必要だから暮らしから不足を知り、それを補うために学んでいた。

知らなくてもいいことを知ろうとするのにはエネルギーがいる。
どうでもいいと思ってしまったことをわかろうとすると、その分たくさんのモチベーションが必要だからだ。
これから漢字は少しずつ学ばなくてもいいものに変わっていってしまうのだろうか。

言葉は記号でもある。(追記:たしか高校の現代文の評論文で読んでたしかに、と思った話だ)
人と人の言いたいことをつなぐ記号だ。
受け手と送り手両方がその記号の役割を知っていて初めてコミュニケーションは成立する。
送り手が送る記号を知らなければ受け手は相手の言いたいことが伝わらないし、逆に送り手が、自分の言いたいことを伝えるのにぴったりな記号を持っていないと、受け手にその内容は正確に伝わらない。
同じ母語を持っていてもコミュニケーションはこんなにも難しい。
だのに、そのバリエーションを得る機会は少しずつ失われている。

身勝手な論であるが、私にはもったいないことに思えてしょうがない。
暮らしのために学んだものが、暮らしに必要とされなくされているように思えてさびしい。
誰かに言いたいことを伝えるためのものが、誰もが知らないことになっていくかもしれないことが恐ろしい。

学びを得る機会を殺さないでほしい。
知らないのなら学べばいい。
知りたいことを知るのに現代は非常にいい環境になったのだから。


今日の〆

そういうお前はもっと算数をがんばりなさいよという話でした。
今思えば幼い頃からこんなことをしているから私は極度の理数系音痴になってしまったのだなと気付かされます。
今日もお読みくださりありがとうございました。
明日もよろしくおねがいいたします。

べにぃ







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