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驚けない素顔はどうできあがったのか!低刺激!べにぃの過去その4

今日の挨拶

こんにちは、べにぃです。
前回は高校生時代にさらにメンタルがひんまがった話をしました。
今日はズートピアの放送を見ながらお送りいたします。
大学時代の話を始めようと思います。




大学生時代

大学に進学して私は一人暮らしを始めた。
大学から歩いて10分ほどのところにアパートを借りてもらった。
潤沢な仕送りをもらって大変にぬくぬくと暮らした。

私は精神保健福祉士という資格が取れる学科に進んだ。
とりあえず学部生としてこの資格を取得する→両親に国家資格を取ったところを見せて安心させる
→大学院は心理学系のところに進学して臨床心理士の資格も取る
という計画でGOサインをもらっていた。
父親なんかは特に大学院へ進学希望する志の高い娘を持ったと安心していたのだろう。

しかし前回も少し触れたがこれは無謀な計画だった。
そもそも精神保健福祉士というのは社会福祉士という別の国家資格から精神保健福祉分野(精神の病気になった人や知的障害を持った人の対人援助に特化している)が分離したもので、
逆に言えば精神保健のジャンル以外は全部社会福祉士でカバーできるので、あまり取得しようとする人がいない。
精神保健分野自体に就職の需要は少ないからである。
対して私は精神の方だけ取れたらよかった。
さらに言えばそれすら表向きのモチベーションだったから社会福祉士を取る気はさらさらなかった。
資格の取得にはたくさんの必修科目と少しの選択科目の履修、
そして1ヶ月強に及ぶ実習に加え、その事前準備科目3ヶ月と終了後の反省科目を3ヶ月履修しなければならない。
そこからさらにそれぞれの試験(科目と問題が膨大にある)を受験し、合格して各協会に名簿登録を行い初めて社会福祉士精神保健福祉士を名乗れる。
必修・選択科目の多くは2つの資格で重複しているが、
実習に関する一連の科目は2セット分受講しなければ両方の資格は取得できないのだ。
さらに言えば、私の通っていたところはもともと教員養成系で、その気になれば学校の先生の資格も取れるタイプだった。
私には頑張るつもりはなかった。
進学してみたら福祉→心理の院進コンボはやる気のない奴には無謀な選択だとわかったし、
周囲にロールモデルは皆無で進路のイメージがまったくもって湧いてこなかった。
クズ野郎だと罵られてもおかしくない。

私は日々を遊んで暮らした。最低限単位を落とさない対策だけしてあとは落書きと居眠りをした。
英語のクラス分けテストはわざと間違えて一番簡単なクラスに入ったりした。
そして親の仕送りで同人誌を買ったりニコニコ動画のプレミアムに課金してしょーもない生放送(笑)をしててきとーに人気者になろうとして大失敗したり、ポルノグラフィティの年越しライブを見に横浜遠征に行ったりそれが元で親と大げんかしたりした。
心の底からろくでもないけどやめられなかった。
そして自己嫌悪と第一志望には足元も届かなかった後悔とでたまに眠れなくて手首を切る悪循環を繰り返した。
バイトもしたがそれすらまともにこなせず、半年でクビになっていた。
ちょうど東北の震災の日は出勤日で、揺れた直後に出勤しなくてはならず、
何も知らない職場の人に大津波警報が来てるから気をつけた方がいい、帰った方がいいと話して大げさなことを話して怖がらせるなと本気で怒られた。
信じてもらえなかった。

他の学科に親しい友人ができて毎日のように部屋に呼んで過ごした。
夏はそうめんばっかり食べたし冬は鍋ばっかり作って食べた。
大学生活の前半はそれでもよかったけど、
後半に差し掛かるとそれでもみんな将来への展望をしっかりもっていて、それに動きはじめた。
一方で私はうつろに進学するからと言い訳して、一方で内心はとっくに諦めていて、どうにもならんなこりゃという感じだった。

私自身はいわゆる「2次元」ジャンルにはまり、池袋が舞台のラノベのキャラクターだったり、
サッカーやらバスケのアニメや漫画に夢中になったり、戦隊ものに詳しくなったりしていて、
同じアパートに住んでる友達なんかとは一緒に朝までアニメを見たりしていた。
そこにもう1・2人ものすごく馬が合う友達がいて、コミュ障の私が趣味も違うのに仲良くなれたのは彼女たちだけだった。

小中と仲良しだったSさんは別の高校に行った後に志望校に落ちて浪人していたのだが、1年遅れで同じ大学に入った。
ちょうど後期試験の前日に東北の大震災があって、
私の家に泊まっていた彼女はそのまましばらく滞在した。
入学してからも何日か私の家で一緒に過ごした。
そのことに関して、自分の中で理屈を処理しきれなくなったことがあって、結局Sさんには迷惑をかけた。


同じ学科に親しい友人はあまりおらず、ゼミの中なんかはまったくもって壊滅的だった。
趣味の合わない人と仲良くする方法がまったくわからないし、
コミュニケーションの取り方がさっぱりわからなくてことあるごとに浮いた。
本業はしんどいし友達には置いてかれてる感じだし、軽い気持ちで幼なじみの人生を傾けてしまったかもしれない気にもなり、
いよいよメンタルが限界だった。
3年の半ば頃に大学院に行くのをやめると家族に話した時は父がひどく激昂し、
失望した、いい加減にしろ、今更就職なんてどうにもならないのにどういうつもりだとかいろいろ言われて、
まあそう言われるのも当然だよなという気持ちもあったけど、なぜか結構ショックだった。
全部自業自得だった。

路線変更して社会福祉士の資格を取る方向に履修を変え始めたが、
結局モチベーションは追いつかないのでこれもつらかった。
就職活動の仕方もわからず、何を志望しても両親には否定されるしどうしたらいいのかさっぱりわからない。
正直やめたくてたまらなかったが電話で度々両親に相談しても取り合ってもらえずわかってもらえないことに苛立った。
両親の話しぶりを聞いてるとユーキャンで実用ボールペン字講座を受けるのと同じハードルでやれ社会福祉士も取れるならとっちゃえよ!とか教員もなれるんでしょ?なりなよ〜!という感じで説得をしてくるので、
自分のモチベーションとのギャップがすごすぎて心身剥がれたらまだ楽だろうかとか真剣に考えた。
薬局で手に入る薬でODしても何の足しにもならない。
精神的に塞ぎ込んで1週間講義を休むことが増えた。
ちなみにその間は罪悪感で昼間は家から出れず、どうしても食料がない時、夜中コンビニに行くような繰り返しである。
2年時は前期後期1度ずつ、3年になったらスポット自主休講も合わせてもっと増えた。
3年次は夏休みを利用して社会福祉士の実習が行われる。
私は社会福祉士方面のモチベーションの見出し方がまったくわからず、
見かねたゼミの教員に実習先を融通してもらっていた。
そこではだいぶよくしてもらい、そこで就職するのもいいだろうかと考えて大学院に行くのをやめたい話をしたのだが、
結果は先述のとおりである。

3年にもなると事後報告会や先輩の卒論中間発表だとか、勉強会だとか、
休日にも顔を出さなければならないイベントも断りづらくなってくる。
私はこれがたまらなく苦痛だった。
スーツを着て、パンプス(で合ってるのだろうか。就活生とかが履く黒い皮でできたヒールのある靴)を履いて人前に出ることを想像するだけで冷や汗が出たし、
ゼミの方針で必ず1回は発言をしないと先輩のゼミ生がバイトしているブックオフでいらっしゃいませ〜と言わなきゃいけないとか冗談めかして脅されたりしていてそのことも脳裏をよぎって大変恐ろしかった。
はじめのうちは何度か出席したが結局すぐ具合が悪くなって、
お腹が痛いだとか、めまいがするとか言ってすっぽかした。
そんな休講とドタキャンとその罪悪感でしっちゃかめっちゃかになり、
さらにゼミ論の打ち合わせなども重なり、
4年になるのを控えた1月頃はもう休みすぎが重なるし長期休み明けのオリエンテーションには出ないで怒られるしといった具合である。
精神保健福祉士の実習は4年時に行われ、その準備がすでに始まっていたのだが、
私は体調不良による休講が重なり、ゼミの教官にこのままだと実習には出せないと告げられてしまった。
それは進学してからの3年間で積み重なった自業自得の究極の結果を突きつけられたのだな、と感じた。

表向きの目的すら果たせないと知り、
そこから少しして、私は大学に通えなくなった。
大学3年の1月の半ばのことだった。
最後に行った日に、卒論のゼミ論のアイデア出しで作ったパワーポイントの資料が初めて教官に褒められて、
同じゼミの学生が「いいよなお前は」みたいなことを話していたのは覚えている。
始めは体調不良で、ということで連絡をしていたのだが、それが1週間2週間と続くとさすがに怪しまれて、
電話にも怯えて出れないという状況だったので、教官から実家に連絡が行った。
両親は私がよもや自殺したため連絡が取れないのではと心配して駆けつけたのは1月の終わり。
私はゴミ屋敷のような六畳間で昼夜逆転の生活を送っていた。
父親は私が生きていたことを知り涙ぐんでいたが、私は長年期待を裏切り続け、つい最近失望した相手が生きているのになぜそんな気持ちになるのかわからなかった。
私は長年父親に怒られるたび、どうしてこの人は私を殺さないのだろうかとずっと考えていた。
3日間かけて部屋のゴミをある程度片付けて、私は実家に連れ戻された。

そこから両親と大学との間でどういうやりとりがあったのかは知らないが、
私は実家で療養しながら4年次を過ごすことになった。
はじめは1、2ヶ月でアパートに戻すつもりだったのだろうが、先述の通りのモチベーションのなさだったし、見せかけのやる気すら回復できずにいた。
病院でストレスドッグとかいう、心理学や精神保健の講義で見たことある感じの専門的な心理テストをいくつか受けたら見事に赤信号でストレスマッハという結果になり、精神科の病院を紹介された。
そこでも何個か診断を受けたところ、当時の診断名で「社会不安性障害による抑鬱状態」という診断を受けた。
私自身、どこかで病名を欲しがっていたのだと思う。少し安心した。
もちろん両親は困っていた。メンヘラの娘なんていらないだろう。
父親には度々私にいつになったら治るんだ、と風邪の具合を尋ねるように問い詰められた。
早く全部治して、それから就職しろとなんども言われている。

そういうこともあり、結局最後までアパートには戻らず、何回かに分けて引き払いの準備をし、
12月頃にアパートの部屋は解約した。
卒論は地元の病院のカウンセラーの手を借りたり、教官とメールなどでやりとりをしたりしながら締め切りギリギリに提出した。だいぶ融通してもらったと思う。
当時私はスーパー戦隊シリーズを視聴するのに傾倒しており、趣味を無理やりテーマを自分の専攻とドッキングさせたものだから、教官は面食らったのではないかなと思う。
もともとやる気のない学生に融通をきかせた上にこんなトンチキな卒論(笑)を送ってこられたら迷惑千万だろう。
正直卒業は厳しいかなと思っていたが、なんとか審査に通って、卒業はできた。

学生という肩書きすらない本当のプー太郎生活が始まった。



今日のまとめと〆

やっと学生時代の話をまとめられました。
明日で卒業してから今までの話をして、
過去の話を終わります。

今日もお読みいただきありがとうございました。
明日もよろしくお願いいたします。

べにぃ