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驚けない素顔はどうできあがったのか!低刺激!べにぃの過去その3

今日の挨拶

こんにちは、べにぃです。
前回は中学生時代の私の話をして案の定患った過去を紹介しました。
ここ数日自分の過去を思い出しながら文章にする作業と対峙して、実家に置いてきたハムスターを撫でくりまわしたい気持ちに駆られてしょうがない気持ちでいっぱいになっています。
今日は高校生時代の話。
さっそく行きましょう。




高校時代

高校は同じ中学の人が誰も行かない学校を選んだ。
理由は2つ。プライドと環境である。
私の住んでいる地域はどうあがいても進学には電車を使わなければならないのだが、
前回の部活動の話でも書いたように、
クソ生意気でオラオラ言わせていた私は、案の定プライドもエベレストのように高い。
電車で会った地元の先輩に笑顔で「おはようございま〜〜す(キラキラ )」と笑顔で挨拶する勇気が私にはなかった。
正直心身ともに毎朝リンチに遭うのではないかと半ば本気で思っていて、
絶対に誰も知り合いのいないところに進学しようと考えていた。
もう一つは環境である。
私の住んでいた場所は中心部から離れた田舎町で、最寄りの高校が点在するエリアには本屋もCDショップも学校帰りに寄れる飲食店もあまり存在していなかった。
私は人生にひどく臆病な正直自分が将来、受験や就職のストレスに耐えられるメンタルをしていないことを察していたので、
人生最後だと思って進学先ではぱーっと遊んで過ごそうとおばかさんな考えをしていたのものだから、
学校のあるエリアはある程度栄えていてほしかったのである。
両親(主に父)との志望校戦争は人並みに経験した。
父は県都に職場があり、同僚の子供と比較して私を県内で一番賢い人が通う学校に連れて行きたかったらしいが、
それに対して私としてはそこそこに栄えていて、できれば私服で通えたらいいなぐらいの気持ちだったためモチベーションに大きな溝があった。
なにより先述の通り屈折した将来観を内心に抱いていたので、
一番賢い高校か、定時制の学校でアルバイトしながら通えたらいいなとか考えている奴は親の期待に応えられなかったのだ。

幸い数学の成績がアホほど下がってもまだほかの教科はギリギリ高校受験に耐えられる点数をキープしていたので、
なんとかこんとか栄えたエリアへの進学に成功した。
ただ、一番賢い高校に数学アホ丸出しで通うことは叶わず、結局制服のある学校に通った。
結果的には数学の成績の低下は理数系の科目に大きな影を落とし、私の学業へのモチベーションも高校生活でだだ下がりしたため、
ぱっぱらぱ〜という言葉にふさわしい楽しく遊べる高校生活を過ごした。

結果としてそこそこ栄えた街へ進学できたので、
欲しい漫画の新刊や、好きなバンドの新曲のCDを学校帰りに買いに行けたりした点ではとてもよかった。
電車通学の友達と学校帰りにロッテリアでふるポテを食べたり、クレープを食べたりしたのもいい思い出だ。
この点では環境で選んだのは本当によかったと思っている。

学業は本当につまらなかった。
まず県都の中学校で過ごした生徒たちと田舎でぼんやり過ごした私とではベースにある教育が違った。
もちろん田舎から栄えた土地に進学すべく勉学に力を入れて過ごした生徒もたくさんいるだろう。
詳しくは割愛するがのちに別の県都の高校へ進学することになる私の弟なんかは本当に立派で、
アホ丸出しに過ごした私を反面教師にしたのか、常に勉学への努力を欠かさないタイプの人間だった。
だが私は遊んで暮らすために栄えた県都へ進学したのでまったくモチベーションが違ったのである。
受験のための勉強、受験のための生活、点数とるための勉強、点数稼ぐテクニック、みたいな言葉が学校中を行き交うものだから正直だいぶ辟易した。
この頃私は漫画なんかによく出てくる学校でずっと寝ているのにテストで100点取れるタイプのキャラクターへ強く憧れていたため、
授業は寝て成績が上がったらラッキーぐらいのドあほうな気持ちになり、朝に早起きして人のいない電車で通学した分を昼間の授業で眠って過ごす生活で3年をやり過ごした。
もちろん寝ているのに100点取れる奴は家に帰ってからめちゃんこ勉強して頑張っているか、幼い頃から100点取れてもおかしくない素養が培われていることを知るのは大人になってからのことである。
私は人生に臆病に暮らした分、人よりいささか精神の成長が幼かったようだ。

個人的には、音楽を聴く趣味の他に、お笑い芸人のオタクになった。
高校に入学する直前、ごきげんように出ていたチュートリアルの話が面白くて、大ファンになったのだ。
ちょうどチュートリアルM-1グランプリで優勝した直後で、バブル人気が最高潮。
出ている番組を片っ端から録画して見て回った。
お小遣いの一部を使ってCSの吉本興業が若手の劇場の様子を生中継したりするチャンネルにも登録して生放送のトーク番組を録画して見たりした。
結局それは時間が取れなくてHDDを圧迫し、私の成績のことでキレた父が定期的に削除するよう命じた。
しかしこのCSのチャンネルがあったおかげで私は地方にいながらにしてテレビに出る機会がない当時無名だった若手芸人の存在を多数知ることになる。
今テレビに出ている人たちなら、ピースや平成ノブシコブシ、パンサーやジャングルポケットなんかも毎日のように渋谷の∞ホールでネタ見せのサバイバルをしていて、
マイナーな芸人のネタの面白さがわかる自分になりたくて、
親が怒っていないときや、長期休暇中の昼間仕事でいないなんかはずっと見ていた。
母親はずっと「普通のテレビを見なさい」と怒っていた。
「普通のテレビって何?」と尋ねると、決まって何も答えてくれなかった。
当時はガラケーだったけど、ネタバトルは回線が空いてれば中継で見れて、学校帰りの電車の中、小さい画面をさらに小さくした画面にかぶりついて見ていた。
ラフ・コントロールが月末の決勝に残った時、どうしてもリアルタイムでネタを見たくて繋いだら、いつもは余裕で見れる回線がパンパンで結局追い出され続けたことがひどく印象に残っている。
ライセンスやNON STYLEなんかを知ったのもこの頃だった。
チュートリアルと合わせたこの3組については、ライブのDVDや演劇のDVDも買って集めたりしていた。
ちなみに私はチュートリアルなら断然福田派で、隠しきれない愛情を注いでいた為、
家族なんかは見ていたらすぐわかりそうなものだったが、
東京に出張に行った父がお笑いが好きな私に気を使って買ってきたお土産がレギュラーの松本くんぬいぐるみだったことには未だに若干納得がいっていない。
思春期だったことも相まってお前は家族なのに私の何を見ていたんだという気持ちに駆られた。
しかし私も家族の期待に応える為成績を上げる努力をすることは一切なかったのでお互い様だったのかもしれない。


人間関係は相変わらずド下手くそだった。
過去の歩みを見てお分かりいただけるかと思うが、
私はだいぶ影を背負ったキャラクターをしていたため、友達も全然できなかった。
もちろん知らない人間だらけだったのもあるが、私自身イケイケキャピキャピの生徒にビビっておりお近づきになるモチベーションがなく、
6月ぐらいまでクラスの誰ともまともに口をきかなかった。
文化祭の準備が始まる頃、同じ製作物を作るグループで一緒になったKちゃんとその友達にお世話になった。
3ヶ月ちかく誰とも仲良くなろうとしない怪しい人間丸出し、ことあるごとに遠くから来たことを自慢するしか能のない性格の悪い私を受け入れてくれた本当に心の底から優しいいい人たちだ。
私の精神はだいぶ救われた。
同じクラスに心を許せる友人がいるかいないか、それは10代の学生にとって砂漠に行くのに中身のある水筒を持って行ったかどうかぐらいの違いがあることを理解した。
反面、心のどこかでMちゃんのことが引っかかり、私が仲良しの友達を得て許されるものかと常に疑問に感じていた。
結果その気持ちが作用したのか、今後仲良くなった友達を何回も突き放して迷惑をかけることになる。

一方で、だいぶ受け入れがたいクラスメイトも存在した。
私は朝、人が混む電車に乗りたくないという理由で多くの生徒が利用する電車より1本早い便を利用していた。
1時間ほど電車に乗って通学するのでその時間を立ちっぱなしになって過ごすことは避けたかったのだ。
そのため、始業より1時間ほど早く教室に到着して小テスト対策をしたり音楽を聴いて読書したりして時間を過ごしていたのだが、
隣の席に座っていた生徒が毎日毎日鬼のように先述したやさしい友達の悪口を大声でお話していたのである。
正直他にも空いている席はたくさんあったのでどこか別の場所でやってくれと思った。
なんであんなに優しいあの子たちがこんなズンドコ悪口を言われなくてはならんのか心底義憤に駆られた。
当時私は友達もいなかったし学年の端っこのクラスに属していたため空き教室に入り浸っていいことを全く知らず、自分の席にいることしかできなかったので毎日飽きもせず友人の悪口を話しているのを聞かされるのはだいぶ地獄だった。
イヤホンとか意味なかった。女性の世間話は基本的に声がでかいのだ。
私のことを直接話しているわけでもない、本人が登校しているわけでもない、あと単純に君たちオラついててめっちゃこわい。
止められない自分の人間の矮小さにもだいぶ腹が立ったし結局1年ぐらいずっとそのままだったのでかなりメンタルが削れた。
クラスのなかで発言力を持つ人間をとりあえず穿って見てしまうようになり、そんな自分も嫌になった。
今でも明るくて元気、おしゃれがだいすき!みたいな性格をした人を見ると若干怖い。

部活は写真部だったが、少数精鋭の部活で、大会前に作品を出す以外の活動はなかったし、
同学年の生徒は私とは違ったベクトルで臆病な性格で趣味も合わず、友達にはなれなかった。
現像液に印画紙を浸して現像するモノクロ作品の時代にはあまり結果を残せなかったが、
最後の大会ではっちゃけた青春(笑)路線を前面に押し出した組写真を出品したら県大会の特賞を取れた。
上位大会には最上級学年の作品は出せないことになっていて、そこで成績はストップした。
両親もあまりピンときておらず、対して誰にも褒められなかった。
父親にいたっては「ベトナム戦争の戦争写真じゃないからよさがわからない」とか自分の視野の狭さを前面に押し出しながらマウントを取られた。
しかし私は無知だったので全てを否定された気持ちになった。


あと、図書委員会に所属してCちゃんという友達と3年間それっぽいことを発言してぶいぶい言わしたり文化祭の出し物を作ったりするのは楽しかった。
私は再び完全に内弁慶のお山の大将状態だった。
Cちゃんは勉学も怠らない立派な人だったが、私はその腰巾着で余計なことを言って回っていた。
初めての部活動で生意気モーションを取った時とあまり変わっていなかった。
私は本を読むのが本当に好きというよりは、本を読む自分キャラに酔いしれていて肝心の読書遍歴は大したことがないタイプだったので、
本当に本が好きで図書委員になった人は心底迷惑だったと思う。
2年生の後半で図書館司書になった先生は本当にいい人で、為になる話を聞けたり、相談に乗ってくれたり、
遅い時間まで出し物のアイデア出しに付き合ってくれたりとたくさんお世話になった。
さんねん峠システムの三日坊主対処法を教えてくれたのもこの先生だ。


こんな調子で過ごしていたため、もちろん大学は行くところがなかった。
たとえば、図書館司書になれる大学は数学をめちゃくちゃがんばっていないと取れなかった。
親戚が勧めた薬学部などもってのほかだった。
毒の薬を調合したら飲むだけで死ねるとかアホな考えで志望していた時期もあったが理系学科は理数科目の点数が命である。
そういった背景と、つぶしがきくからという勧めとでなんとなく理系クラスに在籍していたが私は数学はじめ理系科目が壊滅的に成績が悪かったので、
本当にどうにもならないんじゃないかと思った。
具体的に言えば、センター試験本番で物理と数1Aで30点ぐらいしか取れなかったぐらいである。
ちなみに数2Bは50点だった。化学が諦めて子供向けの科学の読みものぐらいの難易度の科目に切り替えた。
模試でちっとも志望していないが 受けるように勧められたA判定だった大学の推薦入試にすら落ちるし行きたくない大学に落ちて罵られまくるしマジでどん底である。

それもこれも私に将来の展望がないのが悪いと考えた。
しかたないのでなんとか目的を探した。
とりあえず自分の持つ心の闇をなんとかする術をゲットしたかったので、カウンセラーになれる大学を考えた。
心理学で国家資格は取れないのでスポンサー両親からNGが出た。
似たような字面の国家資格が取れる大学をいくつかピックアップされたので、もう面倒臭くてそれじゃあ学部で国家資格とって大学院は心理にしますという話になった。
(わかる人にはわかるだろうがこれは相当な無謀である。
両親もあまり大学受験の知識がなかった。学校の先生もあまりピンときてなかったので誰にも止められなかった。
私自身も無謀に気がつかなかった。本当にやめておけばよかった。)

ちなみに推薦入試もその資格が取れる大学ということで見かねた学年部の先生から勧められたものだった。
私としてはもう大学受験の頃にはメンタルが耐えきれず自殺している予定だったので、
こんなところでまで死なずに生き延びている自分にほとほと呆れていた。
正直今も少し呆れている。
ちょうど推薦入試の直前に祖父が脳出血で意識不明の重体になったりしたことも重なって私のメンタルはだいぶ参った。
なぜ祖父がこんな目にあって私はピンピンしているのか心の底から疑問に感じて夜を過ごした。

私の親なんかがそうなのだが、死ぬ勇気があればなんだってできる!なんで死ぬの!?自殺はぜったい、だ・め・だ・よ!(テンションを重視した変換)とか言って憂鬱な気持ちを抱く人々を糾弾する人たちが10年ほど前はあちらこちらにいたが、
死ぬ勇気さえ持てないクズの私はマジでもう何もできないろくでなしだな。といった具合。
先輩やMちゃんとうまくやれなかったこと、隣の席のムカつく奴にビビっていること、親の期待に応えられないことなどいろいろ凝縮されていた。
成績のことで怒られたり、Mちゃんのことを思い出したりするたびに左腕とかをカッティングしており、傷跡が残り始めた。
死への願望と、自分への罰のような気持ちで傷をつけた。
切る時は死ぬつもりでカットしていたが持ち前の臆病さと厚い肉襦袢もあったせいか、血管を断絶するほど深い傷は残せなかった。
親にも見せたくなかったので、黒いリストバンドをして隠していたが、どう考えてもバレるやろ。
しかし私が何も言わなかったので誰も触れてこなかった。
ほっとけば勝手に元気になると思われていたらしい。
もちろん元気にならなかった。


結局最後まで受験勉強を頑張れなかった私は先述の推薦を落ちた大学ぐらいしか確実に合格できそうな大学がなく、
そこの二次試験で作文をもりもり書くだけの簡単なテストを受けて合格した。
正確に言えば、私立ならもうちょっと楽しそうな都会の大学とかもあったけど、
こんなクソモチベーション皆無野郎に出す余計な金はなかったのだろう。
死ぬことも頑張ることも逆らうこともできないろくでなしの私はそのまま北海道へ進学することとなる。
もちろん就職するモチベーションは保てず死んでしまうつもりだったので、
引き続き遊んで暮らすつもりのクズ計画だった。



今日の〆

暗い話が続きますが、
私の人生のピークは保育園時代に女性なのに戦隊モノに多少通じているというだけでごっこ遊びにひっぱりだこになり、
3日間だけ人気者になれた時です。
明日の大学編で詳しいことを書きますが、今思えばこの頃すでにメンタルはボッコボコになっていたのだなと思います。

今日もお読みいただきありがとうございました。
明日もよろしくお願いします。

べにぃ